「生れたくて生まれたわけじゃないから、生きる意味なんてないよね。」
「そう、親父とお袋が勝手にセックスして、知らないうちに生まれただけのこと。」
「生きる意味なんて、考えること自体バカバカしい🥱」
「・・・・・」
「そうは言っても、その辺を歩いてる犬や猫と一緒では虚しいね😞」
こんなお悩み解決します。
②「生きる意味」は自分の外にあるとは?
③結局、生きがいとは何なのか?
<自己紹介>
筆者本人(2023.11撮影)
筋トレ歴16年 増量期と減量期は設けていません
ボクシング歴10年
<筆者略歴>
1984年 東京大学工学部建築学科卒業後、ゼネコンに入社
1988年 インフラ企業に転職
2018年 子会社の不動産会社に転籍
2923年 退職
目次
生物としての「生きる意味」も自分の中にない
生物としての「生きる意味」は、生殖と子育てです。
女性が長生きの理由は、孫の面倒を見るからという説があります。
稲垣栄洋著「生き物の死にざま」に、「メスの食われながらも交尾をやめないカマキリのオス」の話が載っています。
卵を産むためには、豊富な栄養が必要となります。
食べられたオスは、メスにとっては、この上ない栄養源になるのです。
実際に、オスを食べたメスは、通常の2倍以上もの卵を産むそうです。
交尾しながらメスに食われたカマキリのオスは、紛れもなく身も心も全てを子孫に捧げたわけです。
自分の中には、生物としての「生きる意味」はありません。
自分の「死の意味」も自分の中にない
養老孟子氏は「死」を一人称、二人称、三人称で説明しています。
この中で自分にとって意味がある「死」は、二人称(あなた)の死だけです。
三人称の「死」とは、たとえば警察が発表する交通事故による死亡者数のように、赤の他人の死です。
個々の死を悲しむことはありません。
そして、一人称の「死」、すなわち自分自身の「死」は、見れないので、自分にとっては「無い」のと同じです。
「生きる意味」の裏側である「死」も自分の中ではなく、自分の外にあります。
引用文献:養老孟子著「死の壁」
「生きる意味」は自分の外にある
オーストリアの精神科医、心理学者でホロコースト生還者のヴィクトール・フランクルは、名著「夜と霧」の中で、「人生の意義は、自分のなかにはなく、むしろ自分の外にあるということです。」と語っています。
「生きる意味」なんて無いという意味は、自分のなかには無いということです。
「生きる意味」は、自分と他者との関係から生まれます。
たとえば、末期医療で余命いくばくもない老人は、自分のなかには「生きる意味」はありませんが、他者、すなわち医療従事者との関係において「生きる意味」が発生します。
他者である医療従事者に、生き甲斐や生活の糧、場合によっては感動や悟りを与えています。
「生きる意味」は、自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。
「生きる意味」を失った現代人
①アリとキリギリス
現代人は、あの「アリ」です。
他人を助けたり社会貢献より、個人としての成功を第一に考える人間が現代人です。
「自分の生きる意味は自分のなかにある」というのが常識の時代です。
あの「アリ」のように、どれだけ貯め込んでも、それ自体は「生きる意味」にはなりません。
むしろ、夏の間、歌っていた芸術家「キリギリス」の方が、もし歌で誰かを楽しませていれば「生きる意味」があったということになります。
②「生きる意味」があった貧しい時代
人類誕生から昭和の貧しい時代までは、一人では生きられない時代でした。
「向こう三軒両隣」という言葉が示すとおり、助け合いの時代でした。
結果的に、自分の外に「生きる意味」があったわけです。
安全で効率的、便利で豊かな現代は、一人で生きていけます。
「生きる意味」を自分のなかに見つけたくなります。
③ボランティアに「生きる意味」を見い出す現代人
少しデータは古いですが、ボランティアのグループ数と活動者総数の推移です。
ボランティアは自分の「生きる意味」を外に見出すためのものです。
時代が豊かになるにつれて、ボランティア参加者が増えています。
「生きがい」とは人のために生きること
黒澤明監督の代表作「生きる」をご存じですか?
市役所で市民課長を務める主人公は、ある日突然、胃がんであることを知ります。
それからしばらく自暴自棄になり放蕩生活にはいりますが、ひょんなことから「まだできることがある」と気づき役所に戻ります。
主人公は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて「ゴンドラの唄」を歌いながら息を引き取ります。
いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日(あす)の月日は ないものを
新公園の周辺に住む住民が焼香に訪れ、主人公の遺影に泣いて感謝したという物語です。
ヴィクトール・フランクルの言葉
我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が問われたものとして体験されるのである。
人生は我々に毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである
つまり、「わたしたちが、生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら生きることが、わたしたちから何を期待しているかが問題なのだ。」を描いた映画です。
「生きがい」の答えは、この映画に集約されています。
参考記事:生きる (映画) - Wikipedia
まとめ
この記事をまとめます。
✔生物としての「生きる意味」も「死の意味」も自分の中にはありません。
「生きる意味」は子孫に、「死の意味」は二人称(あなた)の中にあります。
✔社会的な「生きる意味」は、富、名誉、権力など自分の生のなかで完結するものではなく、他者のとの関係から生まれる「感謝」(自分の外にあるもの)です。
✔「感謝」は対価ではありません。
対価(金銭など)になったとたん、自分の生のなかで完結してしまいます。
✔映画「生きる」にすべてが、表現されています。